SLと軟水

 先日、仕事とは直接には関係しない、とある記述を読んでおりましたらば、興味深いものがありました。

 曰く、かつて走っていたSLの運行には、大量の石炭とそして水が必要であり、車両基地に給水塔が設けられていた。その水には湧水が使われていたが、硬水のため薬品を投入して軟水化して使用していた。とありました。


 なるほど「蒸気機関」である、SLの運行には大量の水が必要であったことは、想像に難くありません。
 上の写真、2011年に蒸気機関車の「SL冬の湿原号」に乗りに行った時のものですが、運転台の後部はタンクになっており、上部に石炭が積載されているのが見えます。しかし実はこの下部のほとんどは水タンクなのです。

 そしてそのSLの運行に、軟水が使われていたそうですが、考えてみればSLはその構造が大きなボイラーそのものですから、ある意味当然のことです。

 硬水と軟水については、長くなりますのでご興味ある方は、こちらをご一読ください。
 ボイラーは、細いパイプが複雑に入り組んで、そのパイプ内を水や蒸気が通ります。従って、硬水であると「スケール」と呼ばれる固形物が付着してすぐに故障してしまい、修理も困難なために硬水を使用するのは厳禁です。

 工場用の大型ボイラーなどには、現代では必ず軟水器が備え付けられており、それとほぼ同じ技術を使っているのが、生粋で取り扱っているイオンソフナーです。

 イオンソフナーのようなイオン交換樹脂は、かつてはなかった技術ですので、SLの時代は恐らくはスケール除去剤などを投入していたのではないかと想像します。
 昔から、硬水やそれによるスケールの悩みは大きかったようですね。

 現在でもボイラーがすぐ故障するといった、スケールによるお悩みの方も多いようです。
 その他にも最近普及している、食洗機もスケールが故障の原因となることがありますし、そのほかにも鉄分による、浴槽やトイレの色染みに悩まれている方は、軟水器にも目を向けてみてください。

 生粋的には見逃せない記述だったので、宣伝混じりに書いてみました。(笑

山じゃないけど芝刈りへ

 生粋事務所には、ちょっとした庭があり、芝が植えられているのですが。
 管理人(=自分)の管理不行き届きで、密林状態になってしまいました。

 それをこれまでは電動刈り払い機で刈るという、暴挙に出ていましたが。
 そんな刈り払い機。購入して十数年の齢もあったのでしょう。昨年秋に、本体から異音が出て動かなくなってしまいました。

 秋に入って、芝刈りも最後だったのでそのまま放置していたのですが、やっと重い腰を上げて修理を試みました。

 どうせ規格品のモーターが入っているのだろうと、高をくくってバラしてみたところ。

 意外や専用モーターで、これはどうも部品調達ができそうにありません。

 仕方なく新たに調達することにしましたが、せっかくなのでバージョンアップしてみました。

 電動工具で有名なマキタの芝刈り機です。小型ですが、能力高そうだったのでこれにしました。

 しかし。
 時既に遅しとはこのことか。伸びすぎた芝には、さしもの芝刈り機も苦戦を強いられました。
 一挙に短く刈ってしまうと、芝を傷めて枯れてしまうそうで、設定できる最大長で刈りましたがかなりの虎刈り状態。
 恥ずかしくて、とても写真は載せられません。はい。

 何度かに分けて少しずつ刈っていくべきものだそうで、これからは伸びすぎないうちに、こまめに刈らなくてはいけませんが、当然のこと、刈り払い機でやるよりはるかに楽なので、もう少しちゃんと管理するようになるでしょう。たぶん。(笑

 しばらくは、山ならぬ庭へせっせと芝刈りに、精を出すことになりそうです。

なぜか気付かれる

 つい先日までの猛暑と快晴の日々はどこへやら、今週に入ってからは、とんとお日様を拝んでいません。
 気温も一挙に急降下で、日中は長袖がないと肌寒くて外は歩けません。

 そんな中ですが、営業以外の近隣への用足しなどには、相変わらず原付を愛用しています。
 なにせ小回りが利きますので。

 その原付、本日ついにゾロ目となりました。

 と言っても、年式からするとほとんど走っていない方ですが。

 なにしろ来月で28歳になる老個体。数年計画で少しずつ改修を進めており、今年は錆びの進行した部分を再塗装したり、微々たるものながら見栄えにも手を入れています。

 もう10年以上前に、貼ってあったデカールが剥がれて、樹脂の退色もそのままになっていたリアフェンダーも磨き直したところ、なんだか殺風景になってしまったので、ステッカーを貼り直しました。

 これは、2000年に放送された「仮面ライダークウガ」の中に登場する「リント文字」という架空の文字で、主人公のクウガを表すものです。私自身は特段特撮マニアではないのですが、実は十数年前に、オートバイの先輩からいただいたもので、大きさがちょうど良いと貼ってみたのです。

 そんなわけで、これの意味するところをわかるのは、一部のオタクくらいだろうと、ちょっとしたギャグのつもりでしたが。

 意外と知人関係がめざとく見つけて、「これ、仮面ライダーのマークですよね?」とか「クウガのマークじゃないですか?気になってました」などと声を掛けられるのです。

 声掛かりをしたのは、30代の方達なので、リアルタイムで見ていたであろうとは言え、こんなすぐにバレるとは思いませんでしたね。恐るべきクウガ人気。

 もちろん、ウチの原付はトライチェイサー2000ではないので、300km/hとか出ませんけど。(笑

不思議の防風林

 大農業地帯である、十勝の風物詩とも言える風景のひとつが、防風林です。

読んで字のごとく、人工的に木を植えて、強風や吹雪から畑や家屋を守るものとして知られています。

 が。

 時には果たして防風の役目を果たしているのか、疑問なものも見かけます。

 木の下半分を剪定したのでしょう。少なくとも防風にはならなさそうです。
 樹木にはとんと疎いのでよくわかりませんが、恐らくは陽当たりの関係で剪定したのではと、想像していますが。

 さらに不思議なのはこれ。

 もはや防風の役目を為さず、暴風になりそう。(笑

 こういう樹種なのか、成長過程なのか謎ですが、防風林(と、呼べないかもですが)と言っても、様々なものがあるようで、おもしろいですね。

終わりの川?

 音更町にこんな川があります。

 その名も「エンド川」。士幌町から音更町まで南北に流れ、駒場で音更川に合流しています。

 ここで終わっていそうですが、そんなわけはありません。

 川の珍名は、由仁町の「ヤリキレナイ川」が有名ですが、エンド川もなかなかの珍名。
 おそらくはアイヌ語語源と思いますが、なぜエンド川なのか調べてみましたが、よくわかりませんでした。

 川そのものは、こんなちいさな小川で、ともすると見落としてしまいそうなほど。

 しかし道道に架かる橋にも、ちゃんと川の名が刻まれています。

 ちなみに看板にある「一級河川」とは、河川法により国が指定して管理している川のことで、大きさは関係ありません。

 こんな小さな川ですが、音更川から十勝川へ合流し、十勝の大河となって海へ流れるまで、100km以上も旅をするので、ぜんぜん終わっていないのです。(笑

まだ現役

 昨日は、北見方面へ出張に行ったのですが。

 ちょうどお昼時だったので、昼食を摂りに訓子府駅へ向かいました。
 いや、正確には廃線になった、ふるさと銀河線の「旧訓子府駅跡」ですね。

 廃線後も、地域の施設として活用されており、この中に食堂もあるのです。
 駅前駐車場もあるので、なんどか利用したことがあるのですが。

 今回初めて気付きました。
 懐かしの「丸いポスト」が佇んでいるではありませんか。

 レトロ風味を出すためのオブジェなのかと思いきや。

 なんと未だ現役です。

 丸いポスト自体は、たまーに見かけることはありますが、そのほとんどがオブジェで、現役稼働しているのは極めて珍しいと思います。

 単なるノスタルジックというだけではなく、なにか雰囲気がいいですね。
 このままずっとここで、町を見守って欲しいものです。

差が大きい

 ほんの一週間ほど前までは。

 38℃がどうの、と言ってた気がするんですが。

 今日は、陸別町を通ったらこの気温。

 ちなみに夕方の芽室もこの気温。

 その差24℃って…。身体が付いていきません。

 みなさまも、どうぞくれぐれも体調管理にお気を付けください。

市井の歴史

 先週は、池田歴史資料館のネタを2連発してしまいました。
 こういう近代史的なものが好きなので。(笑

 と言いながら、資料館そのものをちゃんと紹介していなかったので、最後にすこしだけ(勝手に)ご紹介。

 先に書いたように、この資料館は元高島中学校だった建物を利用しており、展示室は元は教室などだったところなので、表示はそのままにしていますね。

 そんな中、個人的に興味を惹かれた展示物をいくつか。


 家畜の診療器具です。農具の展示をしている資料館は多いですが、酪農、ことにこういう獣医関係の展示は珍しいですね。


 大正期の手押し消防ポンプです。まれにこういったポンプ類が展示されていることがありますが、2台もあるのは珍しい。
 この他にも消防団の器具類や衣装など、地域で大切にされていたのがうかがわれます。


 貸本箱。初めて見ました。
 案内文によると、大正初期に貸本屋さんが、客にサンプルの新刊本を見せて回る時に使用したとのこと。
 昭和30年代に貸本が流行した話は聞いていましたが、大正期の話には驚きでした。


 菓子屋さんの道具の数々。真ん中の木製のものは、らくがんの型だそうです。


 羊羹の型だそう。豆栽培が盛んだった十勝らしいものですね。

 これらはごくごくほんの一部。それにしても、よくぞこれだけのものを根気よく集めたものだと感心します。
 また、明治期や大正期のものなど、入植した祖先が捨てずに保管していたことにもまた、驚きを禁じ得ません。

 見た感じでは、本州から嫁に来たのが、良家の子女だった方が多かったと見えて、比較的上質なものを持っておられ、それだけに大切に受け継がれて来た様子がうかがえます。

 こういう市井の人々の道具類は、大きな博物館などは展示されることはありません。
 しかし、とても身近に歴史を感じさせてくれる、貴重な資料だと思います。
 そんな資料館が私は好きですね。

川渡る船

 池田町郷土資料館で、驚いたことがもうひとつありました。

 昨日書いたように、壁に明治から昭和にかけての古い写真が展示してあったのですが。

 池田町には、十勝川と利別川という、大きな川が2本流れています。
 内陸には道路などない開拓期においては、川を遡っての船での輸送が大きな役割を果たしました。

 そして、集落ができてからも、橋の建設はなかなか難しく、それこそ昭和の時代に至るまで、渡し船が活躍したようです。

 十勝川は大きな川だけに、かつではあちこちに渡船場があったようで、現在でもその痕跡が残っている場所もあります。

 渡船というからには、人と自転車、荷車、せいぜい馬くらいは乗せたのだろうなあ、と思っていたのですが。
 この写真には驚きました。

 なんとタクシーが乗っています。
 これは大正期のようで、十勝川の渡船です。

 で、こんな大きな船もあったのだなあ、と感心していたら、この写真で腰を抜かさんばかりに驚きました。

 なんとバスが渡船に乗っています。

 しかも説明によれば、昭和29年まで存続していたとか。
 写真を見る限り、前後のタイヤギリギリの幅です。ていうか、こんな重い車両を横向きに乗せる発想が大胆です。

 転落や転覆事故とかなかったのかなあ、と、思いをはせてしまいましたが、写真を見る限り、帽子をかぶったバスの運転手らしき人も、のんびり船に揺られているのが見て取れます。

 やはりこういう部分では、のどかな時代だったのでしょうね。 

「田園」の謎解ける

 今月初めの連休中に、池田へ行って来ました。

 ぶらぶらと、気ままに車を走らせていると「資料館」の看板が目に付いたので、寄ってみたのです。

 ここは、道東道の池田インターチェンジ近く、高島地区にある池田町郷土資料館で、画像でおわかりのように、元は高島中学校だった建物を利用しています。

 さっそく入館してみると、やはり近くには農業関係の展示室がありました。

 こういった農具関係はまあ、わりとよく見る展示品なのですが。
 この展示室の壁にあるものが、なかなかに興味を引くものでした。

 明治時代の写真がずらりと飾られていたのです。

 池田町の歴史は、この高島地区に大規模牧場が造られたことから始まり、鉄道の駅ができるまで、池田町の中心は高島だったのだそうです。

 驚いたのが、この写真。

 明治33年に水田試作地がつくられ、明治41年には本格的に稲作がなされていたと、初めて知りました。

 今でこそ十勝は畑作中心で、水田のイメージはありませんでしたが、減反政策で畑作へ転換されるまで、池田は水田地帯だったのです。

 そう言われてみると、この近隣の畑は、水田だった頃の名残があるようにも見えます。

 先月書いた田園ホールの由来はこれだったのですね。

 玉置浩二じゃなかったようです。(笑