赤煉瓦

 赤煉瓦、と言えば、有名どころでは、道庁でしょうか。
 冬の寒さに耐えうる強さから、北海道では古い建物の象徴で、昭和の時代は公営住宅尚などでもよく見かけたものですが、本州にはほとんどありません。

 先日、清水町の現場に出向いた帰り、この赤煉瓦で作られた会館を見かけました。

 地域の会館は、田舎ではよく見かける建物ですが、煉瓦造りは珍しい。
 地元の方の手作りであろう看板も、かなりいい味を出しています。

 なおかつ、かなりおしゃれに一段だけを斜めに積んでいるのも、目を引きます。

 煉瓦にも様々な積み方があると、聞いたことがありますが、この建物そのものが、職人ではなく、実際ここを使う、地元の方の手によるものであろうつくりです。

 そういえば、昔の酪農家では、こういう煉瓦造りの倉庫も良くありました。

 会館も、いつ頃建てられたものなのかはわかりませんが、倉庫の流れで、煉瓦で作ろう、ということになったのかも知れません。今でもなお、使われている様子が伺えましたので、まだまだ活躍しそうですね。

浮かぶ神社

 新得町にある十勝ダムの中、まさに水の上に、謎の建物が建っています。

ご覧のように、鳥居と社殿があって神社のようですが、どう見てもここ、船でしか行けません。

 以前からその存在は知っていましたが、なぜダムの中に神社があるのか、謎でした。

 ズームしてみると、コンクリートの基礎があり、けっこうしっかりと建てられているようです。

 ダムができた時に、水神様を祀るために建てたのか、はたまた、この下にはかつてあった集落が沈んでいるので、その社を移したものか。

 十勝ダムや、管轄する開発局のホームページにも、何も情報がありませんでしたが、さらに調べると、やはりダムに沈んでしまった、貴名牛(キナウシ)という集落にあった「貴名牛神社」だそうです。

 貴名牛集落は、昭和21年の戦後開拓で入植が始まり、冷害や十勝岳噴火などの災害に見舞われながらも最盛期には十二戸の開拓農家があったそうですが、ダム建設により、わずか30年でその歴史を閉じてしまいました。

 神社は昭和24年の建立だそうですが、昭和37年には小学校の分校として使われていた歴史もあるそうで、ダムが建設された昭和48年に廃止され、その際にダム周辺の安全を祈願して、現在の神社がこの岩の上に建てられたそうです。

 よく見ると、近くまで道らしきスロープ状のものもあるので、水位の下がる夏場などは、陸路でも行けるようですが、基本的には船でしか行けません。

 ただ、画像を確認すると、さほど寂れている様子ではないので、定期的に手入れされているようですね。

 北海道は、見落とされそうな開拓の遺跡が残っているものですが、これもそのひとつと言えるかも知れません。

渡船場跡

 週末に、用事で音更に行った帰りのことです。

 国道241号、通称「フロンティア通」付近はよく通るのですが、以前からなにか石碑らしいものがあるのが気になっていました。

 で、寄ってみると、やはり開拓碑でした。

 が、そのそばに別の金属の碑があるのに気づき、案内看板らしきものもあったので、見てみると。

 初めて知りました。
 渡船場の跡地だったのですね。

 十勝川流域のかつては、橋ができるまで渡船場が数多くあったのでは、と想像しています。
 案内によると、人だけの渡船だったようなので、馬車などは、遠くの橋を迂回したのでしょうか。

 今は立派な橋が架かっているので、もうかつての渡船場の雰囲気はありませんが、そんな歴史に思いをはせても、楽しいものです。

開町百年

 陸別町にある、道の駅。ふるさと銀河線の陸別駅時代から馴染みがありましたが、昨今はトイレ休憩によく利用させてもらっています。

 その男性用トイレの窓が、陸別町の特徴を表したステンドグラスになっているのですが、下に文字があって、左から読んでいくと。

 「開町九十年記念」とあります。
 「2008109」とあるので、2008年の10月9日だったのでしょうか。

 てことは、今年で実に百周年。

 で、調べてみると、1級町政が施行されたのが、1919年(大正8年)だそうです。
 これを開町としているようなので、わが芽室町も含め、開町百周年の町村がたくさんあることになりますね。(笑

 ただ開基となると、有名な晩成社が入植したのが1883年(明治16年)、芽室町は1886年(明治19年)で、陸別町はその15年後の1901年(明治34年)に入植開始となっています。

 いずれにしてもその時代、道もほとんどなかったであろう内陸の地に、よくぞ開墾したものだと思います。

 100年。あるいはたった、とも表現できるかも知れません。
 100年前は道も、もちろん車も鉄道もない時代。たった100年で時代は大きく変わったのだなあ、と、しみじみ感じます。

空知川の岸辺

 赤平市に「独歩苑」という公園があります。

 明治28年に作家・国木田独歩がこの地を訪れ、それを明治35年にエッセイとして発表したことを、記念したようです。


 苑内はそれほど広くはなく、訪れた時は、人通りも閑散としていました。この後に、地元らしいちいさなお子さんを連れのご家族がひと組来たのみです。


 石碑はありますが、所以については、何も記されたものはありません。
 これだと由来がまったくわからないのでは、と余計な心配をしてしまいますが。

 「空知川の岸辺」を読んだのは、20代半ばの頃、ちょっとだけ明治文学をかじっていた時期がありまして、独歩苑を知ってから、国木田独歩に興味を持って、何冊か読みました。
 独歩の小説は、かなり細かな情景描写がされていることから、明治時代を感じることができて、新鮮な思いがありました。

 いい時代なもので、現在では独歩の作品はKindleを使えば、主要な作品は無料で読むことができます。電子図書はあまり好きではない世代ですが、このあたりは便利だなあと、都合勝手に使っています。

 今では国道沿いから、ありふれた景色として見える空知川ですが、独歩が訪れた時代は、札幌から汽車で歌志内まで行き、さらにそこから案内人を伴って、徒歩で山越えをして訪れ、深い森の雄大な自然に感動したことが描かれています。

 もしも今、独歩が現代の風景を見たら、どう書くでしょうか。