緑の町に舞い降りて

 本日7月11日は、国産プロペラ旅客機YS-11の日、だそうです。

 57年前の1962年7月11日に、戦後初の国産旅客機として、試作1号機が完成したことが由来です。

 昭和世代には、国内便として馴染みの深かったYS-11には、私も何度か搭乗しました。


 画像は以前、三沢航空博物館の展示機を見に行った時のものですが、機内も公開されており、そのマイクロバスのような狭い客室も、懐かしく見ることができました。


 操縦席はアナログな、いかにも航空機、というかんじがします。

 …最も、実際に操縦していたパイロット達には、エンジンのパワー不足や難しい操縦特性で、非常に不評であったとも聞きます。


 翼の上にびょこん、と飛び出すように載せられたエンジンは、ロールスロイス製で、独特の金属音を立てるのが特徴的でした。

 速度が遅く、飛行高度が低いプロペラ機ゆえ、窓からは下界の様子が雲に乗っているかのようにのどかに見えるので、私はこれに乗るのがとても好きでした。

 当時、私の実家が札幌にあり、盛岡の学校に残った私は、千歳から花巻空港までのフライトで、なんどか搭乗したのです。当時は「スカイメイト」という学生割引制度があったので、鉄道と変わらない値段で搭乗できたことが幸いでした。

 盛岡市の南に位置する、花巻空港に舞い降りるために、当然盛岡市の上空を通過します。自分が住んでいる町が眼下に見えるのは、多感な時代のいい思い出で、中でもいちど、自宅のまさに上空を通った時は感動したものです。

 エンジンのパワー不足で上昇性能が悪いだけではなく、主翼が長いことから、降下性能も悪かったらしいのですが、それを裏付けるように、向かい風の時は上空でプロペラを停めて、まさにふわり、と、着陸するのも優雅で好きな部分でした。

 約50年、日本の空を飛び続けたYS-11も、老朽化には勝てず2006年に国内の航空会社すべてから引退し、現在も航空自衛隊がわずかに運用しているようですが、まず見ることはなくなってしまいました。

 ユーミンこと松任谷由実が、1979年に発表した曲の歌詞に出てくるプロペラ機、とは、まさにこのYS-11に他なりません。

 振り返ると、あののどかなフライトを経験できたのは、いい時代だったのだなあ、と、昭和なおぢさんになってしまった自分は、その機体名を聞くと懐かしく思い返すのです。(笑

モダン、の歴史

 昨日までのブログでは、帯広で開催されているトレスアニョス展をご紹介しました。

 今回の展示会場は、重要文化財になっている、旧双葉幼稚園です。
 実に97年前の大正11年建築。

 この会場自体が興味を惹かれるものだったので、おまけでちょっとだけ紹介しましょう。

 南側の庭から見た外観。

 ドーム型の屋根が特徴的です。当時としては相当にモダンなデザインだったことでしょう。


 庭には、懐かしい遊具も残っています。
 その横に大きな切り株がありました。
 かつてはポプラの巨木があったそうですが、落雷で枯れてしまったそうです。


 展示されていた幼稚園時代の絵。かつてはこのようにこどもたちの歓声が響いていたのでしょう。2013年まで実に100回もの卒園式が行われた幼稚園だったため、卒園された方も懐かしんで来場されたそうです。


 ドーム型天井はこんなデザインで、明かり取りの窓もあります。
 今見てもいいデザインです。


 各部屋への入り口の意匠もおしゃれです。


 壁に残されていた、懐かしいかたちのスピーカー。
 昭和の時代、学校のスピーカーもこんなかんじでしたね。


 これは展示室ではないのですが、給湯室ですね。隣がトイレなので、こどもたちに合わせて低く造られた手洗い場が面影を残します。


 玄関横にあった煉瓦造りの倉庫。これも大正期のものなのでしょう。

 以前から噂は聞いていて、ぜひ見てみたいと思っていた大正建築の旧双葉幼稚園。
 ふだんは閉鎖されていて、中を見学することはできないため、その意味でも今回のトレスアニョス展は、見がいのあるものでした。

 トレスアニョス展は、6月23日まで開催しています。お近くの方、ご興味を持たれた方は、ぜひ会場へ足を運んでみてください。入場無料です。

 詳しい案内は↓をどうぞ

 ようこそトレスアニョスの世界へ

 facebookトレスアニョス展

眠る鉄の馬

 鉄馬、と言うと、通常はオートバイのことを例えた言葉ですが、今回のはそれではありません。
 昨日書いた飛行場跡の記録を見に、音更町の資料館を訪ねた時のこと。

 様々な資料があって楽しかったのですが、個人的に最も興味を引かれたのがこれ。

 入り口付近に、古いジープが置かれていたのです。

 あまり規模の大きな資料館ではないので、まさかこんな実車が展示されていたとは、かなり驚きでした。

 こんな話を書いても、誰もわからないと思いますが、今や「ジープ」と言っても、若い方は高級輸入車のそれを連想すると思いますが、昭和の時代は三菱重工(後に三菱自工)で生産されていました。
 戦後の昭和20年代、こういった小型4輪駆動車、ひいては自動車を開発・生産する能力がまだなかった日本は、海外から技術を買い入れていました。そのひとつが、米軍が使用していたウイリス社のジープ(当時、ジープは様々なメーカーが同様の車を生産していました)で、これの生産権を三菱が買い取り、国内で製造を始めました。

 世界の最先端技術を持つに至った、日本の工業力もほんの60年ほど前までは、今日の発展が誰も予想し得ないほど弱小でしかなく、そしてここから様々な技術を、驚くほどのスピードで学び取って行くのです。

 展示されているジープは、国内で生産を始めたばかりのもので、三菱のマークはまだどこにもなく、グリルやボンネットには「WILLS」の浮き文字が残ります。

 いちおう民生用という仕様にはなっているものの、まだ米国仕様そのままだったので、左ハンドルです。

 そして、この車がなぜ今日まで生き残っていたかの理由が、後部にあります。

 これは油圧の昇降装置で、トラクターが普及していなかった当時、馬の代わりに農作業に使われていたとのこと。
 移動手段から農作業まで、まさに万能車。文字通りの鉄の馬であったわけです。

 実は、上富良野町にある、スガノ農機さんのトラクター博物館にも、北見で使用されていた同様のジープが保存されているのですが、その同型車が他にも残っていたのは、まさに驚きでした。

 パネルによると、当時の価格は100万円弱、現在なら2500万円ほどにもなるそうで、まさに家宝としてそれはそれは大事に使われていたようです。

 この時代のジープは、上記のような経緯で1953年に生産が始まり、1998年まで、実に45年もの間、外観はほぼそのままで作られ続けました。しかし、細かな仕様変更は生産初期からかなり多岐に行われており、特に生産初期のモデルについては、当の三菱にすらほとんど資料が残っておらず、軍用から民生用に変更された点など、細部は謎な部分が多いと言われています。そのため、こういったジープの歴史を、真剣に研究している方もいるそうです。

 そんなわけで、ジープは自治体や企業でも多数使わてもいましたが、ほとんどが酷使されて廃車になってしまっているので、生産極初期のこの個体は、かなり貴重なものであることは間違いありません。

 いち車好きの意見としてだけではなく、日本の工業発展の礎になった、歴史資料として長く保存されて欲しいものです。

暁の翼

 昨年、音更のとある施設の横を通りかかった際、そこに「音更飛行場跡」と書かれた看板があるのに気付きました。

 それまで音更町に飛行場があったことなど知らなかったので、てっきり大戦中に、旧日本軍の飛行場でもあったのだろうとその時は思ったのです。

 しかし調べてみると、さらに時代は遡り、大正期に造られた飛行場の跡だとわかりました。
 さらに、その施設は音更町の生涯学習センターと言い、中に資料館もあることもわかったので、行ってみました。

 碑の横には、詳しい案内看板もあります。

 これによると、1925(大正14)年に開設されたが、時期尚早だったらしく、わずか5年後に閉鎖されたとのこと。それも軍の飛行場ではなく、当時関東以北では初となる、民間飛行場だったそうです。
 開設され、最初の飛行機が初飛行した際には、来賓300名、観客1万名が見学したとありますが、音更村(当時)の人口が1万1千名ほどだったというから、いかに注目されたのかがわかります。

 まだ自動車ですら珍しい時代の飛行機。現代では大樹町で打ち上げられた、宇宙ロケットのようなものでしょうか。

 資料館も様々な展示があって興味深かったのですが、ことに当時の写真が何枚か飾られていて、興味を引かれました。

 飛行機だけではなく、昭和初期の乗合バスやタクシーの写真もあり、これもかなり珍しいものです。

 施設近辺は、「雄飛ヶ丘」の地名にその歴史を残しており、町内には「ぎんよくの沢公園」もあり、これも飛行機の銀翼から来たものでしょう。

 なにもかもが新しく、時代を作り上げていった途上の当時、こんな熱意もあったのだなあと、改めて知る機会となりました。

あかるいナショナル

 某所で見かけた、「ザ・昭和」な古い扇風機。

 我々の世代には、この「ナショナル」マークが懐かしい。
 決して「パナソニック」ではないのです。「松下電器」なのです。(笑

 スイッチも、タッチパネルなどではなく、メカニカルなのがまたそそります。よく不具合なく動作しているものです。

 そうこれ、完動品で、まだ現役で使われているのです。

 昨今、古い扇風機は内部部品の劣化で、発煙や発火の危険性もあったりするようですが、まあここは人の多い施設でしたので、万一異常があれば、すぐに気づけることから大丈夫でしょう。

 現行品のデザインや性能も認めますが、なにかほっこりするかんじのまさに『扇風機』。これからも元気に活躍して欲しいものです。

昭和のぬくもり

 先日、仕事でとある宿に泊まったのですが。

 しっかりした暖房はありましたが、それでも寒ければ、という心遣いでしょう。
 こんなものが部屋に備え付けてありました。

 オイルヒーターでもファンヒーターでもポータブルストーブでもなく、まごうかたなき「電気ストーブ」です。

 この懐かしいかたち、特にスイッチの形状などは昭和そのもので、たまりません。

 どうやら日立製のようでしたが、部屋はそこそこに暖かだったので、暖房としては使いませんでした。

 でも、実際点くのか(備えてあるのだから、点くだろうとは思ったものの)試しにコンセントを差して、スイッチを入れてみたり。

 もちろん、ちゃんと作動しましたが。そのぬくもりさえも、なんだか懐かしいかんじでしたね。

ソフトと言っても冷たくない

 昨日パソコンの話を書いたことで、思い出したこと。

 パソコンを業務で使うようになったのは、恐らくは平成になった頃。
 当時勤めていた会社にあったそれは、実質大きなワープロでした。(このへんを詳しく書くと長くなるので割愛)
 その後、北海道に来てから勤めた先には、当初98シリーズがあり、その後出たばかりのWindows3.1が導入されて、今では至極当たり前になった、マウスに触れた時にかなり驚いた記憶があります。

 20世紀もそろそろ終わりが見えた頃、遊び仲間で自営業をしている先輩が、仕事にも使うからとパソコンを新調し、1GBのハードディスクを入れたと聞いて、仲間内で「いったいそんな容量何に使うんだ?!」と話題になったものです。
 何しろ当時はインターネットや動画はおろか、デジカメすらもない時代。
 HDDの容量はまだまだMBが当たり前だったのです。

 しかしそれが数年もしないうちに、あれよあれよと容量が増え、初めて個人用として買ったノートPCは、販売店の特注モデルで6.4GBのHDDが10GBに増強されているのが特長でした。

 買った当初、先輩から「それだけありゃ、数年は持つな」と言われたそのHDDですが、ちょうどデジカメの普及と時期が重なり、数年どころか、たった1年で外付けHDDを増強したのも懐かしい思い出です。

 さらにその2、3年後には、「GB」という単語は既にHDDではなく、「クロックスピード」のことになっていました。

 当時、パソコンを始めたまわりの人々は、みなキーボード操作に慣れずに、泣きながらタイピングソフトで練習したものですよね。
 「(当時の)子供達が大人になる頃には、キーボードなんてなくなる」
 「その頃には、音声入力の時代だ」
 などと言う声もありましたが、私は「いや、今の子供達は生まれた時からPCに触れることになるから、キーボード操作など、なんの苦もなくできるよ」と言っていました。

 が。

 まさか、そこからさらに時代が進んで、スマホの時代になり、若い人間がキーボード操作ができない時代が来るとは。

 たぶん、今の若い人には「ソフト」という用語も通用しないのではないでしょうか。
 いつから「ソフト」ではなく「アプリ」と呼ばれるようになったのでしょう。まあたぶんスマホが普及した頃だと思いますが。

 でもですね。その時代の変化を見られたことは、ある意味幸運ではとも思うのです。